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県指定文化財
白石武家屋敷

 

 白石城は秀吉の奥州仕置により、伊達領から蒲生領となり、天正19年(1591)に会津領主の蒲生氏郷が築城。蒲生氏の後には会津領主となった上杉景勝の家臣甘粕備後清長が入り改修をしている。

 慶長5年(1600)伊達政宗は、白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、その後、伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後、明治維新まで260余年間、片倉氏の居城となり、城下町として栄えた。

 明治7年(1874)に、城は取り壊されましたが、平成7年(1995)に三階櫓(天守閣)と本丸の一部が木造で復元され、石垣や大手門土台石などと共に、現在は益岡公園として整備されていす。

 益岡公園の北西に、武家屋敷が数軒建ち並んでいるが、沢端川に面した後小路に佇んでいる旧小関家(内部見学が可能)は前面、側面の掘割に澄んだ水が流れ、城跡の周辺は今も城下町の風情が残っている。

白石城は東日本大震災の影響で、天守閣、大手二の門、土塀などに大きな被害を受け、復旧工事中に撮った写真です。(平成24年(2012年)9月末復旧工事完了予定)

 

 白石城

 東日本大震災で天守閣、大手二の門、土塀などに大きな被害を受けました。

 現在では災害復旧工事はすべて完了し、平成24年9月30日より一般公開が再開されている。(追記)

本丸御殿跡

 かつてはここに御殿が建てられていた。

高石垣と大手一ノ御門

 本丸を囲む石垣部分は、「野面積み」 という工法で自然石を加工せずに積み上げている。


旧小関家(宮城県指定文化財)

 片倉家中旧小関家は、後小路(うしろこうじ)に佇んでいます。白石城北、三の丸外堀にあたる沢端川に面した町並みで、かつては中級武士の屋敷があったところで、現在も静かな住宅地です。
 この屋敷は、宝暦11年(1761)の白石城下絵図に「小関右衛門七」とあり、鬱蒼たる庭樹でおおわれ、前面、側面を清冽な水流が巡り、景観的にもすぐれたものがあります。

主屋外観

 主屋は北面して建つ。桁行7.5間(けん)、梁行4.0間(けん)の直(す)ご家(や)で、土台のない石場建。屋根は寄棟造、茅葺で裏手に櫛形の煙出し破風(はふ)を付ける。座敷廻りは真壁造、台所廻りは大壁造となる。

 上手の前面に「なかま」と呼ぶ正座敷、その裏側に「なんど」をとり、これら二室の下手に広い一室構成の「ちゃのま」(おかみ)を配した『広間型三間取(さんまどり)』の極めて簡素な間取が復元された。「なかま」の奥に「床の間」を、表側に「平書院」を付け、棹縁(さおぶち)天井を張るが、他室は天井がなく、また板敷である。<白石市観光協会パンフより>

なかま

正座敷で、奥に「床の間」を表側に「平書院」を付けている。

なんど

「なかま」の裏側に「なんど」を取っている。

ちゃのま

「なかま」と「なんど」の下手に「ちゃのま」が配されている。

鬱蒼たる庭樹で覆われている。