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大野武家屋敷

 

 「天空の城」で有名な越前大野城(写真左)は福井県大野市の中心部の標高249mの亀山の丘に聳える城郭。1580年、織田信長の部将、金森長近が築いた平山城。江戸後期、安永4年(1775)に焼失したが、昭和43年(1968)に鉄筋コンクリート造りで天守閣が再建されました。

 

 大野は碁盤の目状に通りの走る「奥越の小京都」と呼ばれる城下町。その城下の山麓には武家屋敷、その東麓の石畳の七間通りに南部酒造場 (同右)をはじめ老舗が連なる町屋、その東側に各宗派の寺院が集中する寺町通りなど、今も趣のある町並が残っています。

   町の所々に名水が湧く池があり、「昭和の名水百選」に選ばれている「御清水」(おしょうず)(同左)は今でも生活用水として使われており、ひしゃくで汲んで味わうことができる。その名水で打つ大野の「おろしそば」は香りが高く、おすすめです。

 

 大野城

天守閣と天狗書院

 本来は2層3階の大天守に2層2階の小天守、天狗書院と呼ばれた付櫓が付属された、複合連結式の天守であったが江戸時代後期に焼失し、現在は1968(昭和43)年に天守閣と天狗書院が再建されている。

天守台石垣

 大野城の石垣は野面積み(のづらづみ)といい、自然石を加工しないで積み上げた古い形式の石垣です。 すき間には詰め石があったりと、一見したところ粗雑にみえるかもしれません。 しかし、敵の攻勢に備え短期間で築くことができ、また、水はけがよいため風化は少なく、大へん堅固です。

山頂からの眺望

大野盆地東側の眺望がすばらしい。

金森長近公の像

 本丸天守東側広場に立つ金森長近公の像。 金森長近公 は織田信長の武将。軍功により 天正3年(1575年)に信長から大野郡の3分の2の3万石を与えられ、越前大野城を築城した。

百間掘と学びの里「めいりん」

 学びの里「めいりん」に沿って、越前大野城の外堀であった百間堀が復元され ている。
「めいりん」の敷地は藩庁や御殿のあった二の丸にあたる。


旧内山家

 この建物は、幕末期に大野藩家老として活躍した内山七郎右衛門良休やその弟の隆佐良隆を輩出した内山家の旧宅です。母屋は平入りの木造切妻造り桟瓦葺二階建てで、明治15年(1882)頃に建てられたものですが、大野城下の武家屋敷の旧態を比較的よく残していると云われている。
間取りは庭と四畳間と台所を西寄りに、その東に八畳間四室を配し、南を座敷、北を仏間とする。 次の間に一間間口の式台を設ける。この式台は脇の柱が通し柱であるために間口を二間とすることができない。 納戸から梯子段を二階に上がると、東に十畳二室が段差を付けて配され、西には二畳間の他に小屋裏を現した物置が広がる。 (案内板より)

座 敷

 

離 れ 

仏 間

台 所

物 置

庭 園


田村家

 田村家は大野藩の家老職を代々務めた田村左兵衛を本家とし、8代鋼三郎の現当主に続いている。
 当初は茅葺きで外観は変わっているが、内部の座敷などの構成は昔のままということです。

南部酒店・七間通り 

 七間通りは、呉服商や薬舖、質屋、味噌・醤油の醸造関係の店などでにぎわい、とりわけ酒屋が立ち並び「酒座(さかざ)」 をなしていた。このころ、大野では約30軒近く酒屋があり市街はもちろん、郊外の各村々に酒屋が点在し隆盛を誇っていた。(同店のHPより)

寺町通り 

 中世から近世にかけて、城下町の防御壁として建てれた寺町。寺院16カ寺で御朱印収集ができる。

藩主隠居所

 大野藩主土井利忠が晩年暮らしていた隠居所と云われている建物。現在は無料休憩所となっている。

朝倉義景墓所

 朝倉義景は織田信長との戦いに敗れ、大野で自害した越前の戦国武将。墓所横には公園も整備されている。

義景清水

 義景公園内の湧水池。イトヨの生息地として、国の天然記念物に指定されている。