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萩城・武 家 屋 敷

 

 

 関ヶ原の戦いで西軍に与したことにより、中国八カ国から、防長二国に減封された毛利輝元は、山口か防府の三田尻に城を築こうとしたが、幕府の意向で萩を本拠地とした。萩城は松本川と橋本川に挟まれた三角州に位置する高さ143mの指月山の山麓に慶長9年(1604)築城を開始、同13年竣工した平山城です。

 天守閣、居館は明治7年(1874)に解体されましたが、天守台、本丸、二の丸の石垣と堀の一部(写真左)は江戸時代の姿を残し、本丸・二の丸跡は指月公園となっています。日本海を背に、前面の堀が満潮の海水で満たされると完全に海域、水域となり難攻不落と云われた当時の面影を今に伝えています。

 また城下から三の丸に入る城門として、当時北の総門、中の総門、平安古の総門の三つの門が設けられていたが、平成16年(2004) 11月に、「萩開府400年」を記念して絵図などを参考にして北の総門が復元されています。

 「堀内地区」はかつての三の丸にあたり、主として重臣たちの居住地で、白壁の武家屋敷・長屋門や古い土塀、わざと道を鍵の手に曲げた「鍵曲」(口羽家住宅)などが残り、当時の面影を伝えています。

 外堀から東側一帯の「城下町」には町家が広がり、豪商の屋敷や幕末に活躍した旧宅など江戸時代と変わらぬ町並みが今も残っています。

 松陰神社付近は、松下村塾や、維新の志士(同右・松下村塾にある塾生らの肖像)を数多く輩出した所で、松陰ゆかりの地を訪ねることができます。当時この地域は松本村(椿東)と呼ばれていたことから「松下村塾」と云う名がつけられました。

 今回訪れた松陰神社周辺と堀内、城下町地区の南側には、「平安古」、「江向」、「土原」地区に中下級の家臣の屋敷跡など名所、旧跡が各所に点在し、城下町として栄えた萩の町にはエリアごとに異なる魅力があるのですが、時間が無く立ち寄ることは出来ませんでした。

 

 

 

 萩城跡(国指定史跡)

本丸:天守台

 本丸の南西隅に築かれた天守台。緩い勾配を持つ石垣は優美さを誇っている。 高さ14.4m、下層は東西19.8m、南北16.2mの五層の天守閣が建てられていた。天守は惜しくも明治7年(1874)に取り壊され、現在は堀と城壁の一部石垣などが残っている。

天守台への階段

かつては天守台には階段はなく、天守取り壊し後に造られた。

天守台上の礎石

五層の天守が建てられていた。

志都岐山神社

 本丸跡に建つ毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳ら初代からの歴代藩主を祀る神社。

前田孫右衛門の碑

 吉田松陰と親交があり、高杉晋作ら尊王攘夷派に尽力した十一烈士の一人。野山獄で処刑される。

 

本丸石垣と指月山

 本丸石垣と左奥は天守台石垣、内掘りは幅20間。

二の丸:毛利輝元公像

 平成16年(2004)に萩開府400年を記念して二の丸南門付近に建立された。 隆元の子で、元就の孫。豊臣政権の五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に擁立される。戦後、長門、周防二か国に減封された。

二の丸南門付近の石垣

本丸を囲むように造られた石垣

塩矢倉(塩櫓)跡

二の丸に設けられていた。


 三の丸:堀内地区(重伝建保存地区)

 

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国指定重要文化財)

 旧厚狭毛利家は元就の5男元秋を始祖とする総石高8371石余りの毛利氏一門。安政3年(1856)建築の長屋のみ残る。本瓦葺き入母屋造りで全長51.4mの長大な長屋。現存する萩の武家屋敷の中では最大の規模。

部屋数は19室、馬具や茶道具、籠など当時の調度品などが展示されている。

天樹院墓所

萩藩を創設した毛利輝元の墓所。国の史跡に指定。

旧福原家萩屋敷門

 萩藩の永代家老・福原家(1万1千余石)の萩上屋敷の表門。 腕木門で両袖に潜戸が付いており、江戸中期の上級武士の屋敷。

口羽家住宅

 永代家老に次ぐ家柄の寄組士の住宅で、なまこ壁と白壁が美しい。主屋と表門は国の重要文化財指定。

 この門前から直角に曲げた見通しの悪い「鍵曲」(かいまがり)が続く。

旧二宮家長屋門

 大組の長屋門。当主二宮就辰は、毛利元就の息子で、輝元の側近として仕えた。

旧児玉家長屋門

 毛利家の家臣で寄組に属していた児玉主税の屋敷跡に残る長屋門。

旧梨羽家書院

 大組藩士の梨羽家(3千2百石)の屋敷で、本書院は一部を欠いているが、19世紀初頭に建てられた武家住宅として貴重な建物。

旧祖式家長屋

 主計頭の祖式家の長屋。古い格子が美しい長屋は長さ約10m、奥行き約5mの平屋建て。

問田益田氏旧宅土塀

 永代家老益田家の分家筋にあたる益田伊豆の屋敷の土塀で、この土塀は全長230m余にもなり、堀内に現存する武家屋敷土塀としては最長。

旧周布家長屋門

 大組士周布家の長屋門。平屋建てで本瓦葺きと云う長屋は江戸中期の代表的な武家屋敷。

旧毛利家別邸表門

 14代藩主毛利元徳が鎌倉材木座に建てた表門、別邸と共に萩に移築されたもの。

旧益田家物見矢倉

 高さ18mの石塁の上に建つ堅固な単層の建物。北の総門からの出入りを見張る隠密対策としての機能もあった。

旧繁沢家長屋門

 阿川毛利家の分家(7391石余)で、寄組(1094石余)に属していた。高杉晋作の上司にあたる。

旧明倫館跡(堀之内)

 5代藩主毛利吉元によって1718年(享保3)堀内に創建。嘉永2年(1849)現在地(明倫小学校)に移転した。江戸末期270余を数えた藩校の内12番目に出来たもので、三の丸にあった。吉田松陰は、兵学師範として明倫館で兵学を教えた。今は石碑のみ。

北の総門

 藩政時代、中の総門、平安古の総門と共に城から三の丸に入る城門として設置されていたものです。日本最大級の高麗門。平成16年に萩開府400年を記念して復元された。

萩博物館

 旧萩城三の丸に位置し、大野毛利家の屋敷跡に建っている。

田中大将像

 素水園にある田中義一の像。明治から昭和にかけて活躍した軍人、政治家です。

夏みかんと土塀

 明治期、貧困士族救済のために、夏みかん栽培が奨励された。当時夏みかん3〜5個で米一升と同じ価値があったという。

北門屋敷

 吉敷毛利家屋敷跡、三千坪の敷地に建つ宿。


 城下町地区(菊屋横町・伊勢屋横町・江戸屋横町)

菊屋家住宅

 萩藩の御用達を務めた豪商・菊屋家の屋敷で、江戸前期に建てられ、幕府巡見使の宿として本陣にあてられていた。主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されている。

旧久保田家住宅

 呉服商・酒造業を営んでいた旧久保田家の住宅は幕末から明治前期の建物で、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」がある。

高杉晋作立志像

 高杉晋作誕生地の近くにある「晋作広場」に平成22年10月建立された。松陰門下生として、倒幕運動の主導者。

高杉晋作誕生地

 天保10年(1839)生まれの晋作は、萩を出るまでの約20年間をここで過ごした。敷地内には産湯に使ったとされる井戸や自作の句碑などが残っている。

木戸孝允誕生地

 桂小五郎の名で知られる木戸孝允の生家で、天保4年(1833)生まれの孝允は、後に藩士・桂家の養子となる。尊王攘夷派のリーダーとして、倒幕、明治維新を実現した。

青木周弼旧宅

 日本屈指の蘭学医で、安政6年(1859)に新築した邸宅。(平成28年まで修復工事中)

円政寺

 ここは幕末に活躍した「高杉晋作」や「伊藤博文」らが幼少期に学んだ場所として知られている。寺には、幼い晋作が肝だめしをしたという“天狗の面”や、遊んだ木馬(神馬)が残っている。

野山獄跡 (市指定史跡)

 上牢として士分の者の獄跡。安政元年(1854)に下田から海外渡航を試みて失敗した吉田松陰は野山獄へ送られる。吉田松陰はここでは読書に励み、出獄するまでの約2年2カ月の間に多くの著述をした。 文久・元治年間(1861〜64)、高杉晋作や楫取素彦ら多くの志士も一時入牢した。また十一烈士など尊王攘夷派だけでなく、保守派の坪井九右衛門や椋梨藤太など、多くの人が処刑されたところでもある。

岩倉獄跡 (市指定史跡)

 庶民を収容した下牢の獄跡。松陰の従者でともに海外渡航を企て失敗した金子重輔は岩倉獄に投じられる。


 松陰神社周辺

松陰神社

 吉田松陰を祭神とする神社で、明治23年(1890)に松下村塾の西隣に土蔵造りの小祠を建てたのが始まりです。その後、明治40年(1907)伊藤博文らによって建立された。

松下村塾(国指定史跡)

 幕末、吉田松陰が主宰し、身分や階級に関係なく門下生を受け入れた私塾の小舎。約1年1カ月の間に久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など維新の原動力となった逸材を育てた場所です。

講義室

8畳ほどの小さな部屋。松陰の石膏像や肖像画が飾られている。

松門神社

 創建当時の土蔵造りの旧社殿は、現在、高杉晋作や久坂玄瑞など松下村塾の門人たちを祭る末社・松門神社となっている。

「薩長土連合密議之処」碑

 松陰神社敷地内、境内入口左奥の隅にあり、明治百年記念の1968年(昭和43)に建立された石碑。揮毫は故岸信介元首相。中央に大きく「薩長土連合密議之處」、向って右から「薩州・田上藤七、長州・久坂玄瑞、土州・坂本龍馬」、左側に「文久二年一月、鈴木勘蔵宿之宿」とある。

吉田稔麿誕生地

 高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一とともに松下村塾の四天王に数えられ、池田屋事件で討死した吉田稔麿の誕生地。

吉田松陰幽囚の旧宅(国指定史跡)

 下田での海外渡航に失敗した松陰は、野山獄に投獄された後、実父・杉百合之助の家で幽閉生活を送ることになった。

 松陰は江戸遊学中、ペリー来航に際しての幕府の対応に怒り、親友である熊本藩士宮部鼎蔵に.、再来する時には、「此時コソ一當ニテ日本刀ノ切レ味ヲ見セ度モノナリ」と書き送っている。

吉田松陰誕生地

 団子岩と呼ばれる所の誕生地には生家は残っておらず、現在は、建物の敷石と産湯の井戸が僅かにその跡を留めている。

伊藤博文旧宅 (国指定史跡)

 初代内閣総理大臣の伊藤博文が、安政元年(1854)の14歳から28歳まで伊藤直右衛門の養子として過ごした木造茅葺き平屋建て、約29坪の質素な住宅。

玉木文之進旧宅

 玉木は松陰の父・杉百合之助の末弟で、天保13年(1842)ここに松下村塾を開いた。この地がまさに「松下村塾発祥地」です。

「ぶらり萩さんぽ」より