城下に全国の大名や商工業者が集められ、有力大名の屋敷は城郭周辺に、商工業者(町屋)はその西側の南北に走る京町・両替町の通りを中心に分けて城下町が形成されました。
さて、今も伏見には、官位や旧苗字などでわかる大名にかかわる町名や商・手工業の町名が数多く残っています。文禄年間(1590頃)に作られた「豊公伏見城の図」などによると、大名によっては城に近い地区に上屋敷、郊外に下屋敷を構えるなど複数の屋敷が見られますが、屋敷跡を拾うと、200邸以上の武家屋敷が描かれています。
しかし、残念なことに、城跡には天守をはじめ堀や石垣など往時の遺構は僅かしかなく、また武家屋敷は住宅地に変わり、また戦いの敗者は地名に残されていないこともあり、武家屋敷の正確な位置が掴めている屋敷跡は非常に少ないようです。
こうした中で現在、醍醐寺三宝院書院、西本願寺唐門、養源院天井板などの木幡山伏見城の建築や石垣などの遺構や、ほぼ碁盤目状の整然とした町並みに、福島大夫町、水野左近町、毛利長門町、井伊掃部町、羽柴長吉町、桃山町、景勝町、治部町、島津町など、かつて大名が住んでいたとされる大名ゆかりの町名が数多く残されており、現地を訪ねることで秀吉・家康時代の城下町の名残を感じることができます。
一方、古地図を見ると、今では伏見城の大手門に通じる老舗も多い大手筋通は、もともとは武家屋敷が多く立ち並んでいた通りであり、当時は一筋南の油掛通付近の方に、車町、塩屋町、本材木町、納屋町と云った町名が散在していることからも、商人町としてかつての賑わいぶりを窺い知ることができます。
また、上に触れた「両替町」は南北に1丁目から15丁目まで、「京町」は1丁目から10丁目まで古地図に載っているが、両替町には、その後銀座が置かれたことから、5丁目から8丁目(欠番)は銀座町1丁目から4丁目に代わり、今も両替町、京町、銀座町の町名は往時のままに残されています。
ここでは、「豊公伏見城の図」、「伏見の図」(江戸期以前制作のもの)、「安土桃山地図―京都時代MAP」や文献資料、仁丹の町名看板を参考にして、現在の地図と重ね合わせながら 安土桃山時代における各藩邸とその推定地を取り纏めています。あくまで推定であることご了承願います。
ここで秀吉が造った城下町・伏見を少し振り返ると、伏見の地は、京から高瀬舟で伏見へ下り、三十石船に積み替えて、淀、橋本、枚方、佐太、守口、野田などを経て終着天満橋八軒家浜(現在の土佐堀通り辺り)へと京都と天下の台所・大坂を結ぶ過書船や三十石船などの港町として賑わいました。
同時に陸路の要所としても、京と伏見を結ぶ伏見街道をはじめ、大津より分かれ伏見・淀を通り大坂へ至る東海道・京街道(現在の京阪電鉄沿いに、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられた)、伏見から奈良へ至る新大和街道(現在の国道24号・近鉄奈良線沿い)など、伏見と京、大坂、奈良を結ぶ物資の集積拠点となりました。
また公卿と各大名との接近を抑制するため、洛中を参勤交代のルートから外し、伏見をそのルートにしたこともあって、宿場や市場、蔵や両替商が建ち並び、水陸交通の要所として発展しました。
秀吉は「難波のことは夢のまた夢」と辞世の句を残し、62歳の生涯を終え、秀吉の死後、1622年(元和8)に伏見城は廃城となるが、この城跡はいつのころか桃畑とかわり、その名も「桃山」、「桃山時代」と呼ばれるようになるのです。
そして時は移り、幕末になると、寺田屋事件や鳥羽・伏見の戦いが起こり、薩摩や長州の藩邸があった伏見の南半分は焼失することになるが、坂本龍馬ゆかりの船宿・寺田屋、濠川を行く十石船、今も残る古い酒蔵や土蔵造りの家などが並ぶ風情ある町並み、幕府軍の本営が置かれた伏見奉行所の跡(今は団地の入り口付近に、小さな石碑があるだけ)、木幡山伏見城の門と石垣が残る御香宮神社、木幡山伏見城の総門の遺構が残る栄春寺など、史跡・名勝がいくつも残っています。
現在の伏見桃山城の天守閣(写真)(現在非公開)は、豊臣、徳川期の城とは別物で、資料をもとに1964年(昭和39)、遊園地の一角に建てた模擬の天守。この場所は木幡山伏見城本丸から内堀を隔てた二の丸北側にある御花畑山荘(長束正家、近江水口5万石→12万石、1563〜1600年の屋敷)の跡地、本丸跡一帯には明治天皇の伏見桃山陵が造営され、域内は立入り制限されています。