幕末京都の世相
京都がかわる
幕末。政治家・志士・文人らのなかの先覚者たちは、「葵丑(きちゅう)以来」という言葉を好んで使った。葵丑とは嘉永6年(1853)の干支であり、この年の6月、アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーが浦賀に来航し、日本の開国を促すという事件が勃発した。
このペリー来航は、日本の対外的な代表者が江戸幕府(将軍)なのか京都朝廷(天皇)なのかを議論させる大政治問題を、日本国内に引き起こしたのである。葵丑以来、京都朝廷の動きが、全国から注目されるようになった。そして、しだいに京都が幕末政局の舞台となり、それにつれて京の町も大きく変貌していったのである。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
幕府は、外国人が秘かに京都に侵入して朝廷と直接交渉することや、各地の諸大名が京都朝廷を通して幕府政治に干渉することを、もっとも恐れていたのである。
京都警衛を命じられた彦根藩は、京屋敷を建設すべく禁裏にもほど近い三本木の地を選定したがこれは実現せず、河原町三条下ル東側で高瀬川の浜地をも含む千余坪の地に京屋敷を建設した。
しかし、幕命といえ彦根藩井伊家が京都に乗り込んだことは、いろいろな思惑をもつ諸国の大名をかえって刺激した。安政から文久にかけて、有力な諸大名たちは幕末政局における発言力を強化しようとして、有能な家臣を次々に京都へ送り込むとともに、自らも武装兵士を率いて入京した。
これに呼応するかのように、幕府もまた寛永11年(1634)以来234年間も途絶えていた将軍の上洛を決定し、文久3年(1863)三月これを実現させた。まさに、京都は幕末政局の舞台となったのである。
あいつぐ武士の入京によって、これまで町人の都市として静かなたたずまいを見せていた京都は、武家の町へとその雰囲気を変え、都市の景観や構造までしだいに変容していったのである。
町屋とならんでほとんど目立たなかった諸大名の京屋敷は、たちまちのうちに増築、拡大され、市民にはもちろん幕府でさえ勝手に踏み込めない治外法権的な領域と化し、有名な寺院は、諸大名の本陣となって、信仰と観光の対象から一挙に政治の場へと性格を変えた。京都市中の旅館はもちろん、民家や町々の会所、中小の寺社にまで、大名屋敷や本陣に収容しきれない武士たちがなかば強制的に投宿するありさまであった。
京屋敷、すなわち諸国の大名が京都に建設した大名屋敷は、数字の上では17世紀前半から幕末までおよそ70前後でほとんど変わらないが、その機能や実態を見てみると幕末に至って急変している。
幕末以前では、京屋敷は西陣織をはじめとする京都手工芸品の調達や、上方商人との金融交渉などの役目を持ち、一大名一屋敷がほとんどであった。しかし幕末に入ると、多くの藩士を収容して政治的な活動を行う拠点となった。このため、屋敷の内部の改造はもとより、屋敷の広さそのものが問題となったし、一大名で二つか三つの屋敷もつことも珍しいことではなくなった。
たとえば、薩摩藩は錦小路通東洞院東入ルに持っていたが、文久2年島津久光が軍勢を率いて上京してから新たな京屋敷の物色を始め、翌年には相国寺境内および門前町数カ町を含む地域に新屋敷を設け、洛東上岡崎にも練兵場を備えた広大な新屋敷を造っている。
もっとも、この洛東の新屋敷はのちに手ばなして、そのかわりに等持院村にまた新屋敷をもとめている。因幡鳥取藩も油小路通下立売下ル東側に京屋敷があったが、薩摩藩と同じころ東堀川通中立売下ル東側に一丁四方の広大な新邸を建設、さらに、元治元年(1864)には北野大将軍の西側お土居をこえたところに第三の屋敷を設けている。
このような武家屋敷の建設は、突然にしかも強引に、市民から家と土地と仕事とを奪うかたちで進められ、民家の立ち退き道路のとりつぶしなどは日常の出来事となった。新たに建設される武家屋敷は、もちろん周辺住民にとって開かれた存在にはならなかった。武家屋敷建設の場合だけではない。大名が特定の寺院を本陣として借り受ける場合でも、事情は同じであった。
文久2年(1862)12月24日、京都守護職会津藩主松平容保は京都に入ったが、その本陣は黒谷の金戒光明寺であった。寺側では、これに先立って京都町奉行所からの厳命により、二、三の塔頭を除く本坊以下大多数の坊舎を会津藩に引き渡すこととなり、本尊をはじめ仏像仏具の引っ越しに大騒動しなければならなかった。本陣と化す寺院では、いずれの場合でも多かれ少なかれ、それは同じであった。京都の町全体が、市民の意思とはかかわりなく入京してくる武士によって、急速に侵食されていくのである。
揺れる市民生活
京都の変貌は、皮肉といえばあまりにも皮肉であった。時代は大きく動き、すでに武家の世が終わり近代への黎明を迎えようとする時期になって、京都は武家の町へとその様相を変えたのである。
京都を中心に政争の嵐が吹き荒れ、政争は武闘をはらんで、京都の町全体が殺伐とした雰囲気につつまれていった。聞きなれない地方の方言を使い、見なれない異様な風体をした侍が、京中の町角だけではなく近郊の村落においてさえ、ひしめきあっていたといってよい。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
文久3年3月、将軍徳川家茂の上洛にともない、数10万の武士が一時に入京したときには、日用食料品はもちろんのこと、宿泊用の蒲団が不足し、急遽大坂まで蒲団の借り入れに走りまわらなければならないありさまであった。京中のあらゆる物価が暴騰し、市民生活が極度に圧迫されたことはいうまでもない。しかし一方では、こうした機会をうまくとらえて諸大名と結びつき、その用達となって莫大な収益を上げる者もいた。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
ともかく、京都の政治都市への変身が、京の市民たちの生活に何らかの意味で修正をせまり、その生き方・考え方まで変化させていったことはたしかである。
開国や幕末の動乱を巧みに商機としてとらえ、利潤の追求にのみ専念する商人、政治の舞台となった京都の発展を考え、交通運輸網の整備などを中心とする都市改造に取り組む人、あるいはこのような積極的な対応は示さなかったものの、伝統的な京童の精神をもって、諸情勢の展開に対して嘲弄の言辞をとばし、ちょぼくれを書きとめひややかな関心をよせる人々、また消極的な関心すら意識的に拒否し、自らの生活にとじこもる人など、実にさまざまな対応を京町人は示しているのである。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
多様な京町人の動き、それ自体がきわめて政治的であった。たとえば、文久3年7月24日、仏光寺通高倉西入ルの貿易相八幡屋卯兵衛の首が、攘夷派の手によって三条大橋のたもとにさらされるという事件があった。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
この事件は、そのそばにあった札によれば、八幡屋は幕府の交易許可を得て外国との貿易をすすめ、莫大な利潤を得たが、その貿易のために国内の物価が騰貴し、庶民の生活は極度に困窮した。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
これらの貿易商人の生き方は万民の苦しみをかえりみない悪辣非道なものであるから、天誅を加えたというものであった。すなわち、この暗殺は梟首添札というかたちをとったことからも明らかなように、ひとつは同様の貿易商人に対する警告、みせしめであり、もうひとつは直接的に政治的な立場を表明しなくとも、このような時代にはその生き方が必然的に政治的な意味を持つものであり、社会的に生き方が問われるのだということを明示する意味を持っていた。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
このような時代にあって、庶民が何よりも必要としたのは、諸種の判断を下すに際しての信頼できる確かな情報であった。しかし、農民や町人とは隔絶された武士の世界、政治の動きというものは、その真偽はともかくとして情報の入手そのものが容易ではなかった。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
したがって、庶民は得られる情報はどんな些細なものであっても集めようとした。聞書、見聞録、風聞書秘録、雑記などとよばれる雑多な記録が民間でさかんにつくられ、またかわら版のような簡易な出版物にも、時事情報的なものが多く取り扱われるようになるのも、こうした世相のあらわれであった。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
市中のあちこちに張り出される張紙や捨て札を、ていねいに写し取る京町人は、その張紙・捨札に対して、常にわが身をふりかえり、世の中の動きを見つめる切迫した緊張感をもって接したに相違ない。
いずれにしても、京町人たちは自らの判断の材料として、あらゆる情報を入手しようとした。そうした情報欲求に対しては、それを供給するものが当然あらわれる。それは専門の情報屋であったり、一定の政治的主張をもった集団や個人であったり、またうわさづくりの名手大衆であったりした。
この事態に一番早く手を打ったのは、やはり幕府であった。それまで江戸湾防備に従事していた彦根藩主井伊直弼に、異国船出没に備えて京都警備にあたれという幕府の特命が嘉永7年4月9日下された。
この時代はまさにそういう時代であった。生まれた情報は、いずれも政治的な意味を持つものである。一般の世相や風俗や世間話でさえ、いったん人々の間にとりあげられると、政治的な意味を持つものとなっていた。なぜなら、情報を得ようとする民衆の存在、それがもっとも政治的な存在だったからである。 (京都市史編纂所 鎌田道隆)
本文の内容は幕末京都の世相を知る上で、参考になるので「京都幕末維新」日本の古地図10 講談社より転載 させて頂いたものです。
|